「メディアは偏っている」「自分たちに都合が良い情報しか流さない」などの批判が広がり、報道への信頼が揺らいでいます。では、偏らない、自分たちの都合ではない報道、中立・客観的な報道とはどういうものでしょうか。

Twitterでアンケートを取ってみました。

Aさんが「外は晴れだ」。Bさんが「外は雨だ」と言ってるとして、以下のどちらが「中立・客観」的な報道でしょうか。

 1. Aさんは「晴れ」、Bさんは「雨」と言っている。
 2. 2人の発言は異なるが、外を確認したところ晴れだ。

「前提条件が不足していて分からない」「AとBが違う場所にいるかもしれない」という声もありましたが、140字なのでシンプルな設定にしました。シンプルに考えてみてください。

結果はこちら。24時間で2537の回答が集まりました。

AさんとBさんの発言をそのまま報じた前者が42.5%AさんとBさんの発言を踏まえた上で自分で確認して報じた後者が57.5%でした。この2つは全く逆の方法論で報道しているわけですが、両方ともに「中立・客観な報道」であると考えた人たちがいました。それぞれの意見を見てみます。

1を選んだ人の意見

1です。 1は事実です。 2は書き手の主観が入っています。 2は書き手が外を見て「晴れ」だと主張している文です。

2は窓の外を見た記者個人のアネクドート追加記事なので「記者個人の体験でどちらが正しいかの判断を混ぜて報道している」と取れる つまりA、Bの客観報道では無い。

1を選んだ人は「『外を確認したところ晴れだ』と書いている部分は取材した記者の主観や体験であり、客観報道ではない」と判断していることがわかります。

「客観的」とは辞書的には「主観から離れていること」「特定の立場にとらわれずに物事を見ること」なので、これらの意見は説得力があるように思えます。ところがアンケートではやや少数派。では、2を選んだ人の意見を見ます。

2を選んだ人の意見

1は広報誌のお知らせ。 2が中立•客観的な報道。

2が「中立・客観的」な報道だと思う。 1だと個人の主張(事象)をそのまま伝えてるだけなので「報道」としての意味が欠落してる気がする。

両論併記さえすれば「中立・客観的」になると考えてる人がこんなにいるのは驚き。 記者が実態を調査して初めてAとBのどちらが正しいか(嘘をついているか)がわかるのに。 両論併記でよしとする人たちは「誰が」言ってるかだけに興味があって、「何を」言ってるかはどうでもよいのだな。

2 だと思います。 AさんもBさんも下駄投げてそう言ってたら? AさんとBさんはそう言うが実際は「雪」だったら? こう仮定して考えてみました。

2が客観的かと。異なる意見の一方を尊重するわけではなく、事実(晴れを確認した)を伝えることがポイントかなと思いました。

「外を確認したところ晴れだ、というのは記者の主観に過ぎない」なんて言っている人がいますが、そんなことを言い出したらAさんの発言もBさんの発言もみんな主観でしょう。

1を選んだ人たちとは視点が違うことがわかります。こちらは「A、Bの発言自体が『個人の主張・主観』であり、それらの情報を並べるだけでは事実を伝えるという報道の役割を果たしていない」と考えています。

また、「外を確認する」という行為は、記者の「意見」ではなく「事実の確認」と捉えています。

どこに着目するかで「客観・中立」の判断が異なる

つまり、1を選んだ人は記者の確認が「中立・客観」から逸脱した主観であると捉える傾向があり、2を選んだ人は内容が真逆のA, Bの発言が事実かどうか分からない以上、記者が事実を確認した上で報じるのが「中立・客観」だと考えているということになります。

どちらも筋が通っているように感じる人が多いのでは?

判断が分かれているポイントは「記者が自ら確認する行動」への評価です。1はこれが客観を超えていると判断し、2はこれこそが客観性を担保すると考えています。

もし、この報道がAとBの発言を伝えることを主目的しているものであるならば、記者の行動はその目的を逸脱し、客観的にAとBの発言を伝えていないとも言えるでしょう。一方で、この報道が天気について伝える目的であれば、 AとBの発言だけでなく、外を見て確認して天気を伝える方が客観的に事実を伝えられる確率が上がるでしょう。ただし、この記者が晴れか雨かを判断する能力があり、ありのままを伝える誠実さがあれば、です。

なので冒頭のTwitterでの質問に戻ると、どちらを選んでも間違いではないと言えます。アンケートの回答者の中にもそのことに触れた人がいました。

外の天気についての事実の報道であれば2だけど、Aさんの発言、Bさんの発言どちらも情報量を同じ分で報道している点では1で、「中立・客観的に報道している」のは1なんじゃないですかね。 「事実の報道」と「立場に偏らない報道」どちらを中立・客観的と捉えるかに依ります。

これらを踏まえた上で、僕自身の考えを述べたいと思います。

その報道は誰に何を何のために伝えるものか

友人たちと家飲みをしていて、あなたは台所で料理をしていて手が離せません。でもこの後、みんなで外に遊びに行く予定がある。居間にいる友人に「天気はどう?」と聞きました。

「Aは晴れ、Bは雨だと言ってるよ」とその友人が答えたら、どうでしょう。「お前も窓から外を見て確認しろよ!」と思うはずです。

この場合、知りたいのはAとBの言葉ではなく、明らかに天気です。冒頭のTwitterの質問でも、素直に考えれば、報道の受け取り手が知りたい情報はAとBの発言ではなく、天気のはずです。

なので、僕だったらAとBの発言を聞いた上で、自分でも確認します。その瞬間に晴れか雨かぐらいは、空を見ればわかる。そこに主観が入り込む隙間はない。Bは雨だと言ったけれど、当てずっぽうで言ったのかもしれません。

この時、Bの方が仲が良いから肩入れをして、晴れなのに雨だと報じたら、それは中立・客観ではないですが、自分でも確認して晴れだから晴れだと報じることは、天気は晴れだという事実に対して、中立・客観的な報道と言えます。

こういう意見もありました。

天気だとピンと来ないけれど、Aさんは「空爆されている」、Bさんは「空爆などはなく平和だ」と主張しているとして、記者の周りで空爆が起きているのに、双方の主張を並べるだけの報道がされるとしたら、その社会はとても危ない。

天気ではなく、新型コロナ対策の報道だったら?

天気は空を見ればいいだけなので単純です。でも、事例で示した空爆だったり、オリンピック・パラリンピックの開催に関する報道だったりすれば、話はより複雑になります。

菅義偉首相は「開催する」と主張している。立憲民主党の枝野幸男代表は「不可能」と主張している。ここで新聞社が菅首相と枝野代表の発言だけでなく、自社で判断して「開催すべきだ」または「開催すべきではない」と報じたら、それは中立・客観的な報道とは言えません。それはいわゆるオピニオン(論説)記事です。

世の中の報道には、さまざまな種類があります。事実だけを並べたストレートニュース、その事実の背景を詳しく説明する解説、自身の意見を加える論説などです。

時々、ストレートニュースに対して「記者の見方が足りていない不十分な記事」と批判したり、論説に対して「お前の意見は聞いてない」「客観性がない」と怒ったりする人がいますが、筋違いです。それぞれ役割が違う。サッカーでキーパーに点を取れとか、フォワードにゴールを守れとか言うようようなものです。

論説には自分の意見が入るので中立・客観から外れます。解説だってどの視点から見るか、ストレートニュースだってどの事実を取捨選択するかによって、さらにはどのニュースを取り上げるかには、必ず価値判断が入ります。その意味では、記者や報道機関の主観的な価値判断が全く入らない中立・客観報道というものはあり得ません。

それでも、ジャーナリズムにおいては可能な限り、中立・客観性を維持することが重視されてきました。まず第一に特定の党派性を持たないこと。事実を事実として提示し、自分の主観で脚色を加えたり、読者をミスリードしたりしないこと。これらが中立・客観性を保つために必要だとされてきました。

偏っていたら、その価値観や党派が好きな人には支持されますが、そうではない人には嫌われ、内容を疑われ、結果として情報を広く届けるという機能を果たせませんし、信頼性が高まりません。中立・客観を失って、自分たちの主観だけで偏った情報を伝えることはアクティビズム(行動主義)であり、広く世の中に情報を伝えるジャーナリズムとは異なると考えられてきました。

一方で、ジェンダーやブラック・ライブズ・マターやLGBTQなど、差別に晒されてきた人たちを報じる上で、中立・客観的な報道が現状の差別構造の維持に働くのではないかという指摘もあります。この点については、また後日、改めて記事にしたいと思います。

独立性を保つための中立・客観

日本新聞協会は、以下のように掲げています。

(独立と寛容)新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。

日本新聞協会「新聞倫理綱領」

ニューヨーク・タイムズ(NYT)は、編集部門のための倫理綱領をハンドブックとして公開しています。その中で中立性を保つために、細かい規定を設けています。例えば、以下のような内容です。

スタッフは贈り物やチケットや割引や払い戻しやその他の勧誘を、NYTが報じる、または報じる可能性がある組織や個人から受け取ってはならない(25ドル以下の企業ロゴ入りコップなどのようなものは例外)。それらの贈り物は、礼節をもった説明とともに返送しなければならない。

The New York Times “Ethical Journalism”

このハンドブックには返送する際の文案まで付記されるほどの徹底ぶりです。これらはNYTの中立性・独立性を保ち、読者の信頼を獲得するために必要な価値観であり、実践すべきルールだと考えられています。

また、ファクトチェック(情報の真偽検証)を推進する国際的な団体International Fact-Checking Network(IFCN)は、その倫理綱領の最初に非党派性を掲げています

「加盟団体は全てのファクトチェックに関して、同じ基準で実施する。対立する両側のうち片方だけを集中してファクトチェックしてはならない。全てのファクトチェックにおいて同じプロセスを踏み、証拠を持って結果を語らしめる。加盟団体はファクトチェックする話題について、政治的な意見の表明や提案をしない」

IFCN”the code of principles”

こういった倫理綱領やルールブックが定められ、その実践が求められるのも、ひとえに中立・客観性や独立を維持し、信頼性を獲得するためです。メディア不信が広がっている時代に、信頼を獲得するのは至難の技です。だからこそ、普段の努力や、なぜ、そのような報道がなされるのか説明を尽くす努力が求められていると思います。

なので、こういう記事を書いてみました。今後も週末に更新していこうと思います。

最後に、冒頭の問題について。気づいた方もいるかもしれませんが、実はこれ、3年前に英語圏でバズったあるミームを元に作っています。

大学のジャーナリズムの授業で先生が語った言葉だそうです。「ファッ○ン・ウィンドウ」というあたり、勢いがあって好きです。

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Posted by 古田大輔

ジャーナリスト/メディアコラボ代表 朝日新聞記者、BuzzFeed Japan創刊編集長を経て独立。2020年9月からGoogle News Labティーチングフェローも務める。